2025年10月4日土曜日。
私にとっては、ただの「美術展に行った日」ではなく、魂に刻まれる一日となった。
浜松・龍雲寺で開催される金澤翔子さんの最後の新作奉納記念書展を訪れ、翔子さん本人とのサイン会に並んでサインをいただいた。
展覧会の始まり、寺への入口
早朝、車で浜松へ。
龍雲寺の門前に立った時、まず目に入ったのは静かな境内、そして寺と自然が織りなす佇まいだった。
3月にお寺(禅堂に修行に来たお寺だ)ちょっと久しぶりで懐かしい。
このお寺にはもともと、金澤翔子さんが奉納された巨大な「世界一大きい般若心経」が常設展示されている。
この般若心経の前に座って考え事をするととても気持ちが落ち着いた。
私は、このお寺で修行に来ているときに、何度となくこの般若心経の前に座った。
門をぐぐると、思っていた以上にすごい人たちがいた。というのも、靴を抜いであがるのだが、置く場所がないくらいの靴の量だった。
庭の石や木々の緑、風のやさしい音——自然の息づかいが本当なら感じられる空間なのに、なんだか喧騒とは離れて人の声もする境内を歩きながら、展示の案内板を見つけ、会場へと足を進めた。
展示空間と作品との対話
本堂や展示会場には、約50点ほどの作品が並んでいたという案内がある。注目されていたのが、翔子さんが構想2年・制作8年をかけて取り組んだ「四十歳の般若心経」である。それは、11の節に分けられた屏風形式で徐々に完成され、飾られていた。また、翔子さんが母への思いを言葉にした手紙をもとに書にした作品も、並んでいた。
展示室のあちこちで筆が走る音や、鑑賞者の息遣いが聞こえるような想像ができた。紙と墨、そのにじみや線の強弱、かすれ、ひとつひとつの筆致に「祈り」が込められていることを強く感じた。
私は心の中で、作品と対話しているようだった。字のひとつひとつが呼吸しているように、墨の痕が息をしているように感じられた。その空間の中に、私と作品とが交錯する瞬間があった。
席上揮毫とサイン会――翔子さんと交わす時間
案内によれば、席上揮毫(ライブ書くパフォーマンス)は13:00~、その後14:00過ぎからサイン会という流れだった。実際、席上揮毫は時間が間に合わなくて、翔子さんが書くところを見ることはできなかった。
書き終わった字が飾ってあって、見ることができたが、やはり力強く、しっかりとした意思のある字に感じた。
揮毫終了後、場内でサイン会が始まった。整理券は不要で、書籍を購入した人にその場でサインをしてもらえる形式。列に並んだ。順番が近づくと、胸の鼓動が少し早くなっていた。心の中で「直接会えるのだろうか」と、期待と緊張が交錯する。
サインをお願いします。と伝えると、翔子さんは穏やかな笑顔でサインをしてくださった。短い言葉を交わすことができた。ほんの一瞬だったが、顔を見て、声を聞いて、その存在に触れることができたことは、言葉にならない喜びだった。
「静けさ」を思い出す——3月の禅堂での時間
人で溢れた会場を後にして、ふと3月の記憶がよみがえった。
同じ龍雲寺を訪れたとき、私は禅堂に足を運んだ。
そのときは展覧会の喧騒などなく、ただ静かな時間が流れていた。
禅堂は、空気が澄んでいて、音という音が消えていた。
畳の感触、木の香り、窓から差すやわらかな光。
佐鳴湖が見える椅子に腰を下ろすと、自然と背筋が伸び、呼吸が深くなる。
何も考えないようにしても、頭の中には日常の出来事が浮かび上がってくる。
それでも、ただ呼吸に意識を向けているうちに、少しずつ心が落ち着いていった。
その時に感じた“静寂”と、今日の“熱気”。
対照的だけれど、どちらも龍雲寺の姿なのだと思う。
祈りの場であり、人が集う場でもある。
静寂の中に自分を見つめる時間もあれば、
人の想いがぶつかり合い、共鳴し合う時間もある。
龍雲寺が教えてくれたこと
帰り道、山門を出て振り返った。
翔子さんの作品と、あの笑顔、そして3月に過ごした静かな時間。
それらが混ざり合って、ひとつの物語のように胸の中に残っていた。
龍雲寺という場所は、不思議な力を持っている。
人が集い、感じ、祈り、それぞれの心が動く。
その瞬間のすべてが“今ここ”にあることを、翔子さんの書が教えてくれる。
ごった返す人の波の中でも、確かに感じたあの温度。
そして、あの禅堂で体験した深い静けさ。
どちらも「生きている今」を感じるための大切な時間だったのだと思う。
「ありがとう」という言葉を胸の中で繰り返しながら、私は龍雲寺をあとにした。
翔子さんの筆が残した一文字一文字のように、私の心にも小さな灯りがともっていた。


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