うちの夫は、家事をよくやってくれる。
たとえば、ご飯は炊飯器を使わず、ガスで炊く派。
毎日、米を研ぎ、鍋に水を張り、火加減を見ながら炊いてくれるのは夫の仕事。
ある日、私が帰宅すると、台所には甘い炊きたての香りが広がっていて、「今日はちょっと柔らかめに炊いてみたよ」と、夫が少し照れたように言った。
その日、私が少し体調が悪いのを察していたのだろう。
おかゆほどではないけれど、やさしい食感の白ごはんが、その気遣いごと体にしみた。
ああ、ありがたいなあと思った。
そして、食後の食器洗いも夫の担当。
私がダイニングを拭いている間に、キッチンから水音が聞こえてくる。
その音は、日々の中で耳が覚えた“平和のサイン”のようなものだ。
ときどき水がはねて「うわっ」と声を上げているのが聞こえると、少し笑ってしまう。
なんだかんだ言って、真面目に取り組んでくれている姿が、私はけっこう好きだ。
もうひとつ、印象的だったことがある。
ある晩、私がぼーっとテレビを見ていたら、キッチンから「これ、スポンジ変えといたよ」と声がした。
見ると、古くなっていた台所スポンジが、私が気づかぬうちに新しいものに替えられていた。
細かいことだけど、こういうことってすごく嬉しい。
言われなければ見過ごしていたようなことに、先に気づいて動いてくれる――その心配りが、日々の家事のなかで、じんわりと効いてくる。
家事のやり方には好みもあるし、感覚の違いもある。
でも、夫が“やろう”としてくれていること、暮らしを一緒に整えようとしてくれる姿勢に、私は毎日助けられている。
やり方が少々違ったとしても、そこには「大切にしたい」という気持ちがあると、私はちゃんとわかっているつもりだ。
ほんとうに、感謝してます。
心から。
でもね、ちょっとだけ…言いたいこともあるんです。
たとえば、ご飯は炊いてくれる。これはもう本当にありがたい。
ただ、炊きあがったあとの鍋、なぜか毎回そのまま。
蓋を開けると、そこには堂々と残りのご飯と“そのままのしゃもじ”が、まるで「ここにいたよ」と言わんばかりに鎮座している。
「え、炊いたらミッション完了ってこと?」
「残ったご飯は誰がパックに詰めるの?私??」
「え、しゃもじって、誰が洗う設定?」
心の中でツッコミを入れながら、私は冷蔵庫に保存容器に入れたご飯を日付を書いていれる。
ほんのひと手間、ほんのワンステップ。
そこまでやってくれたら、きっと私は黙って満面の笑みを浮かべるだろうに…と思いつつ、毎度その“あとひと息”に小さなため息をこぼしてしまう。
食器洗いも、とても助かっている。
でも、水切りカゴから器たちがはみ出して、バランス芸のように皿が積まれている日もある。
「なんでこれ、タワー建設中なの?」と笑ってしまう反面、「これを使うとき、誰がまた水を切るのかな…」と未来の自分にそっとエールを送る。
本人は全力でやってくれているし、感謝もしている。
でも、この“9割完成でゴールテープを切った感じ”の絶妙さが、なんとも惜しいのだ。
…惜しい、けど、言うと角が立つ。
だから今日も、私はそっと、しゃもじと鍋を洗う。
それが、我が家の平和のレシピ。




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